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kanon #24「夢の果ての追復曲~kanon~」 

ということで、遂にこの作品も最終回となりましたが、いきなり冒頭から秋子さん出てるんですけど、これは「無事に退院した」ということになりますか。…と思えばアレ? 栞に舞に佐祐理さんとまさに「奇蹟」的な回復を遂げた面々が続々と登場、というか舞と佐祐理さんと裕一の3人で卓を囲んで食事してたんですけど一瞬「留年したのか? 卒業はどうした?」と思いましたがどうも卒業直前の話のようでホッとしました。しかし「奇蹟」の大バーゲンもここまで来ると逆に実に爽快です。
で、あゆは7年前の事故で亡くなったわけではなく「ずっと眠っていた」とは秋子さんが言ってましたが、秋子さんは「今までのあゆ=7年前のあゆ」という事に気付いていなかったということになるんでしょうか? それなら秋子さんが最初にあゆに出会ったときの違和感も説明できますし、今までの裕一と秋子さんのセリフの微妙なずれも納得がいくのですが。

そういえば前回封印されたままの「あゆの3つめの願い」は何だったのか…それは栞の「誰かの夢の中にいるのかもしれない」以下の長いセリフの中にある「その人の大好きな人にずっと笑っていてほしい」というのが大きな手がかりになるのではないかと。「その人=あゆ」「大好きな人=裕一」を指すのは明らかであり、「裕一にずっと笑っていて欲しい」が故に全員に怪我・病気を治させたりと一気に奇蹟が降りかかったということになりますか。栞の「周りの人たちもみんな幸せでなければならない」というセリフからも伺えます。しかしながらこれはあゆが願った事であり、裕一が願った事ではないので真琴は復活することは結局ありませんでした…。でもここに「裕一が笑っていられる」ために欠かせないはずである「あゆが目覚める」事が無いという大きな矛盾が生じてしまいました。みんなへ奇蹟を起こさせるための代償ということでしょうか? ここら辺はとても難解な部分でして原作やった時もここら辺はよく分かりませんでした。
そして、長かった「夢」のさめる時は遂に来る…渡したと思っていたが実際には渡されていなかった「カチューシャ」の意味するところは…「現実」より「カチューシャを渡したという捏造された幻想」を選んだ裕一なんですが、ついにそれがあゆの手に渡り見事ハッピーエンドに達することに。季節が巡り巡るシーン(まさにカノンと言える)は本当に良くできていたと思います。最後、裕一はあゆ(本物)を連れて行くところで本編は終了。で、本当の一番最後、木の芽生え(というか再生?)とでもいうシーンの後ろにはどこかで見たことのある狐(?)が…いや、まさかな…。

ということで、長かった「夢」の話もこれでお終いとなる訳なんですけど、作画クオリティの高さとその安定さにはやはり舌を巻くものがあり、さすがは京アニと呼べ、原作では個別EDになる所ですけどそれを続けてさらに咀嚼をし、連続したストーリーに仕立てたのも素晴らしいと言えます。ただ、私の中でのこのkanonという作品はある意味「真琴シナリオ」で止まってしまったんですよ、なまじ出来が良くて救われない話だけだっただけに…。また、名雪の扱いのあまりの不憫さに違う意味で泣いた作品でもありました。東映版・京アニ版通して、結局はあゆを盛り立てるだけに終始してしまった感があり、そこは残念なところです。
また、今回2クールを使って素晴らしい作品を仕上げてきたわけなんですが、逆を言うとこれだけの話をたったの1クールに収めた東映版のスタッフはもっと評価されても良いのかもしれません。アゴが気になりますけど。

さて、ここからはどうでもいい話なんですけどこの作品のサブタイトルには様々な音楽用語がありました。ただ、私が思うにこの作品に対しては西洋音楽よりも日本の音楽スタイル「序・破・急」があてはまると思うんですよ。「序…子供時代の思い出」「破…現在の裕一とあゆ」「急…夢の覚める時」と考えればどうかなと。まあ今思いついたんですけど、西洋音楽のように縦に並べて楽章立てするより、横に並べた序破急の方がすっきりするんじゃないかな、と思うんですけど、どんなものでしょうか。

※3/18追…やはり「序・破・急」はあてはまりませんね。よく考えればこの物語は「現在」から始まっているわけで、「起承転結」でいえば「承」から始まっている物語ですし。そこから過去にさかのぼるわけだから順番としては「承転起結」が妥当なわけで、ここに音楽のスタイルを見いだすのは難しい。ということで、やはり敢えて音楽のスタイルを求めるなら「kanon」が一番しっくりくると言うことになりますか。
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